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《花燃》第二十話:「松陰、復活!」(松陰、復活!) kyokaku 2015-05-17 23:01:54
◈剧情概要:(Episode Timeline:1862~1863)

► 高杉晉作(高良健吾 飾)從上海考察回來了,將被列強侵佔的清廷困境,向毛利敬親(北大路欣也 飾)藩主報告,並說服應該加強軍備與攘夷。小田村伊之助(大澤隆夫 飾)為了讓長州藩能團結一致,而到藩內的四支藩去遊說,但是保守派的重臣椋梨藤太(內藤剛志 飾)加以阻擾。

► 另一方面久坂玄瑞(東出昌大 飾)為了要讓朝廷下敕令命幕府攘夷而開始採取遊說行動。但一直沒有辦法讓事情順利進行,在藝妓辰路(鈴木杏 飾)的運作下計畫終於有了進展。

► 在萩等待丈夫玄瑞回來的杉文(井上真央 飾)得知小田村與寿(優香 飾)的兒子篤太郎整天泡在松下塾研讀松陰(伊勢谷友介 飾)的著作。杉文希望兄長松陰的書能夠有更多人看去找晉作的太太雅……。

【附註:歷史背景解說】
► 1862年下半年起,長州藩守舊派被刺殺受傷的長井雅樂失勢,尊王攘夷的尊攘派抬頭。7月高杉晉作從上海回國後不久,即受藩命前往京都和江戶展開勤皇及「破約攘夷」的宣傳活動,並且和各藩的志士們互相交流。在這過程中,高杉和長州的志士們逐漸形成長州民族主義,而長州藩和朝廷及他藩的談判工作就由桂小五郎和久坂玄瑞專門負責。9月受到薩摩藩的「生麥事件」刺激,文久2年12月12日(西曆1863年1月31日),為了抗議幕府的異勅,高杉與同志所組織的「御楯組」12人一起燒毀在江戶品川御殿山裡建設中的英國駐日公使館,然後把吉田松陰的遺骨從小塚原遷葬到世田谷。
★英国公使館焼き討ち事件:襲撃者
 隊長:高杉晋作
 副将:久坂玄瑞
 火付け役:井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎
 護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵
 斬捨役:赤根武人、白井小助ら

► 生麦事件(又稱神奈川事件),是一件發生於文久2年八月二十一日(西曆1862年9月14日)日本武藏國橘樹郡生麥村(現今橫濱市鶴見區)的武士砍殺外國人事件。該事件導致1863年8月7艘英國軍艦炮轟鹿兒島,史稱薩英戰爭。
[事件經過]1862年9月14日,四個英國人在生麦村的東海道上騎馬走。他們中有一個往返橫濱和上海的商人查理斯·理察遜(Charles Lennox Richardson)、他的店員克拉克(Clark)、以及一對住在香港的英國商人馬歇爾(Marshall)夫妻。在路上,他們遇到了向幕府傳達朝廷攘夷旨意的薩摩藩藩主的監護人島津久光和他的700人儀仗隊,從江戶回藩,途經橫濱附近的生麥村。儀仗隊站滿了整條道路。按照慣例,平民如遇到大名行列的儀仗隊,須下跪及退讓,可是四個英國人無論如何也不肯,而這被認為是對大名的無禮行為。其間,馬歇爾夫人的馬突然受驚衝入儀仗隊,島津衛隊的奈良原喜立刻拔出了刀,砍傷了查理斯,緊接著上來的衛隊殺死了他,重傷了克拉克和馬歇爾。

► 本集劇中高杉晉作從上海回國後,帶了一些「舶來品」回來,包括一支左輪手槍和娟絲手帕,江戶時代日本的主要輸出貨品是生絲和絲製品,但是當時中國的娟絲品質更高檔。另外,銀也是重要的輸出,因為當時「石見銀礦」佔世界三分之一的的產量,石見銀礦位於現今的島根縣(山口縣的北邊),其產出的銀品質優良,深獲各國歡迎。因為江戶時代長期鎖國,金銀比價長期維持在1比5.6左右的水平,而當時世界上的兌換比是1比15。德川幕府這個金銀兌換比如果不盡快調整,一旦日本被迫開國,必然會有大量黃金在短期內被西洋商人低價套取,從而造成嚴重的金融危機。這也是西方列強強迫日本通商開港後,由於調整金銀兌換比率,頓時造成民生市場物價嚴重波動,形成平民百姓對德川幕府的民怨。
★19世紀西方列強用「船堅砲利」逼迫中日兩國通商貿易套取暴利模式:將鴉片輸出賣給中國換成銀元,再將銀元拿到日本換成金幣,拿著金幣回國再換成銀元,獲利達到數倍之多。(銀元是當時世界各國認可的標準換匯方式,每銀元的重量統一)

► 本集(第20回)1862年久坂玄瑞在京都認識交往的藝妓愛妾:辰路,是真有其人其事,辰路本名叫井筒·辰(1846~1910),她和玄瑞之間還生了一個兒子,叫秀次郎。辰路是在京都著名的紅燈區花街島原桔梗屋工作。1870年4月透過角屋的當主和桔梗屋的女將的媒妁介紹,和京都下京的富裕農家竹岡甚之助結婚,明治43年(1910年)過世,享年65歲。京都的桔梗屋和輪違屋,都是幕末時期著名有藝妓陪侍的酒家,當時動盪的年代,來自各地的武士和浪人們,白天為國家大事拼鬥,晚上就到有藝妓的酒家放輕鬆享樂。替幕府辦事專抓尊皇攘夷志士的「新選組」浪人們,也是這些酒店的常客。2007年由一線女星上戶彩主演的藝妓電影《輪違屋糸里~女人們的新選組》,就是在述說著那個時期的故事,劇情裡也有提到桔梗屋。
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◈《專題》明治維新與同治中興之比較

► 日本在中國的隋唐時期(約6~8世紀),曾多次派遣大量的「遣唐使」(包括10幾歲的少年)前往中國學習各種進步文明的典章、制度、事務、知識、學問(包括文字),回國後作為自身改革的參考依據(最明顯例子,日本和服就是在穿著上模仿唐朝的服裝,甚至取名為「吳服」),但是唯獨有兩樣中國重要的制度沒學,那就是「科舉制度」和「宦官制度」。

► 1862年5月高杉晉作奉公前往中國上海考察,此時正值太平天囯正在進行第二次軍事武力行動進攻奪取上海之際,英法等西方列強基於保護自身在中國經商貿易之殖民經濟利益,出動軍隊協助清廷對抗太平軍,結果在西方強大的新式槍砲火力和進步的作戰戰術下,太平軍被擊潰了。高杉晉作在兩個月的考察觀觀察下,得到的感想心得是:中國的知識文人在八股的科舉制度影響下,流於重視表面形式主義的空談,沒有親身務實實踐聖賢書上品德要求的行動力,此種國度遲早將淪為西方列強殖民下的奴才。

► 事實上,1840年代英國以「船堅砲利」的鴉片戰爭逼迫大清國開放港口進行通商貿易,當時的部分有志之士也有看到國家的危機,也有建言朝廷進行學習西方進步的工業文明的改革,而管理當局也有著手進行改革。所以,「同治中興」從1860年代就已開始,比日本的「明治維新」更早開始,但是到了1894年「甲午戰爭」的驗證成果,證實「同治中興」是失敗的,「明治維新」是成功的,為什麼?

► 明治維新之成功和同治中興之失敗,實乃近現代世界歷史之頭等大事,影響中日兩國之命運。明治維新之絕大成功,最根本原因是武士道精神之激勵;同治中興之慘痛失敗,最根本原因是中華文化精神之衰落和喪失。

► 同治中興(又稱同光中興、洋務運動、自強運動)推動執行的內容:
 ● 前期洋務概況(1861-1872):⑴引用洋人、⑵革新外交、⑶建立國防工業、⑷培育洋務人才
 ● 後期洋務概況(1873-1894):⑴興辦民用企業、⑵增強海陸軍備、⑶翻譯西方書籍
 ● 主要推動人物:奕訢、曾國藩、左宗棠、李鴻章和胡林翼。

► 同治中興(洋務運動)失敗原因:
 ⑴守舊派阻撓
 ⑵洋務派識見不高
 ⑶行政管理腐敗
 ⑷列強阻撓

► 同治中興(洋務運動)的內涵以「中學為體,西學為用」為指導原則。然而,西方人立國之本有其政治社會的條件配合,清廷推動執行的重臣李鴻章卻說:「中國文物制度,事事遠出西人之上,獨火器萬不能及」。不知西洋立國的根本,在於政教修明,士民殷富。因此梁啟超批評洋務派「知有兵事而不知有民政,知有外交而不知有內務」,這是洋務運動失敗的主要原因。加上當時民智未開,平民百姓知識水平低下,雜有迷信作祟,盲目反對洋務,對築鐵路、採礦、架電纜等西洋器物,多懷仇視心理,一般人民皆反對洋務,在這頑固迷信的政治、社會環境中,洋務運動難有成就。

► 1860年代,與中國一海之隔的日本,雖然是一個小島國,人口數約三千萬,不及當時中國的12分之1(四億人口),但是日本是當時全世界「識字普及率」最高的國家。所以,當明治維新改革執行時,一般平民百姓也同時接受到西方文明知識,對西方進步的事物,不僅物質方面,包括精神層面也一併同時吸收。舉一例,明治維新的精神導師福澤諭吉(1835年-1901),介紹西方文明開化事務與思想的著作《勸學篇》,在當時的日本幾乎人手一本。當一般平民百姓也能接受西方進步的觀念後,再加上改革方向和發展策略正確,官方與民間共同努力,維新改革的成功是必然的。結論:「知識教育」是明治維新能夠成功的最重要因素。

【補述1】同治帝(1856年4月27日-1875年1月12日),愛新覺羅氏,諱載淳,咸豐帝長子,清朝入關以來的第8位皇帝,1861年至1875年在位,年號「同治」。5歲時即帝位,由嫡母慈安太后和生母慈禧太后共同垂簾聽政。1875年駕崩時年僅19歲(正史記載死於天花,民間傳說卻是死於梅毒,因為同治喜好到城內私娼處縱淫取樂),諡穆宗毅皇帝。

【補述2】光緒帝(1871年8月14日-1908年11月14日),愛新覺羅氏,諱載湉,醇賢親王奕譞次子,清朝入關以來的第9位皇帝,1875年至1908年在位,年號「光緒」。3歲時即帝位,幼年時由慈安太后及慈禧太后垂簾聽政,歷經甲午戰爭、戊戌變法,1898年戊戌變法失敗後光緒帝被慈禧太后禁閉在中南海瀛台。1908年11月14日,光緒帝在中南海瀛台被砒霜毒死,比慈禧早一日駕崩,年僅37歲,諡德宗景皇帝。

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◈【影片】

■《花燃ゆ》第20話 「松陰、復活!」 - 2015 05 17(無字幕版)


★ [MioMio彈幕網網站連結觀看完整版] ➜ http://www.miomio.tv/watch

■ 5分で分かる花燃ゆ~第20回「松陰、復活!」~


■ 生麦事件〔戲劇版〕


■ カウントダウン事業(生麦事件紹介) 〔紀錄片:說明事件始末與相關背景資料〕


■ 輪違屋糸里(Wachigaiya Itosato) [上戶彩主演(2007)]


■ 京都 清涼寺 夕霧祭 「輪違屋」の現役太夫による太夫道中(花魁道中)

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◈【MV音樂欣賞】



■ 坂の上の雲 「Stand Alone」 Vocalise(第1部) + 森麻季(第2部)



[註]

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【參考資料】

※ 長州藩藩論的大轉換!向「破約攘夷」改變的經緯〔轉載自NHK《花燃ゆ》官網『白熱教室』第23回〕
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■ 現実路線! 長井雅楽の「航海遠略策」

►「航海遠略策」は、長州藩士・長井雅楽が提唱した「大攘夷思想」です。すでに幕府が各国と通商条約を締結し、国際的にも承認されている以上、朝廷が望むように条約を破棄したり再び鎖国政策をとることは、非常に困難です。そこで長井は、「公武合体を推進して一丸となり、積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこう」と唱えました。

► この堂々たる主張に、藩主・毛利敬親が共感します。文久元年(1861)3月、敬親は「航海遠略策」を長州藩の正式な藩是として採用。長井に対して、朝廷と幕府にも建言するように命じます。するとこの現実的な「航海遠略策」は朝廷や幕府でも受け入れられ、幕府から朝廷との意見調整を依頼されるなど、他藩に遅れを取っていた長州藩が一気に発言力を強める形となりました。

► しかし、この「航海遠略策」は外国の主張をそのまま受け入れている印象もあり、快く思わない勢力もありました。その急先鋒となるのが、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らを中心とする尊王攘夷派の志士たちです。

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■ 薩摩藩の上洛により「航海遠略策」は水の泡

► 文久2年(1862)1月15日に「航海遠略策」の推進役のひとりであった老中・安藤信正が坂下門外で襲撃されて失脚し、大きな後ろ盾を失った長井。そんな厳しい状況でも長井は孤軍奮闘し、文久2年3月に再び京を訪れて「航海遠略策」を改めて朝廷に提案します。しかし、京の情勢は大きく様変わりしており、工作は失敗に終わります。薩摩藩主の父・島津久光が兵を引き連れて上京するという情報から、尊王攘夷派の志士たちの動きが活発化していたのです。

► 名君・島津斉彬の死後、薩摩藩の実権を握ったのは、斉彬の異母弟である久光でした。斉彬から後事を託された久光は、薩摩藩の武力を背景に朝廷と幕府の仲介役を務めて公武合体を実現させ、より強固な幕藩体制を確立することを目指して、文久3年(1863)3月16日に藩兵1千人余りを率いて薩摩を出立します。久光の狙いは、あくまでも公武合体の推進です。しかし尊王攘夷派の志士たちは、この久光の動きを攘夷に向けての動きと期待したのです。

► この緊迫した状況に藩論の分裂を恐れた敬親は、長井に江戸への帰府を指示。4月14日、長井は失意のうちに京を後にすることとなりました。

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■ 薩摩藩でもあった「公武合体」 VS. 「尊王攘夷」

► 島津久光が京へ入ったのは、文久2年(1862)4月16日のことです。久光は早速、婚姻関係にある近衛家を通じて朝廷工作を図り、幕政改革を求める勅使の派遣を認めさせるなど、積極的に公武合体に向けた活動を始めます。一方、久光の上洛に合わせて動きを活発化させていた尊王攘夷派の志士たちは、公武合体派の関白と京都所司代の襲撃を計画。薩摩藩からも急進派の有馬新七らがこれに応じ、伏見の船宿・寺田屋に集結していました。

► この有馬らの動きに対し久光は、4月23日に孝明天皇の許しを得て藩士たちを寺田屋へ送り、説得工作を行います。しかし聞き入れられないとわかると、その場で志士たちを斬りつけ、計画を潰しました。久光の命で説得へ向かった藩士たちも、思想的には有馬らと同じ尊王攘夷で、個人的にも親しい間柄でした。寺田屋での大乱闘は、「尊攘」と「君命」との板挟みの中で起きた悲しい死闘だったのです。

► この事件をきっかけに、久光は過激浪士を抑えたとして朝廷から信頼されるようになり、薩摩藩兵の京都駐屯を認められます。また幕府は、京の警備を強化するため、新たに京都守護職を置くことを決めました。

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■ 一途に攘夷を目指した松陰の友たち

► 薩摩藩の上洛が追い打ちをかけ、水の泡となってしまった長井の「航海遠略策」。この機を狙って長井の失脚を図ったのが、桂小五郎、久坂玄瑞らを中心とする尊王攘夷派の志士たちです。彼らは、「航海遠略策」の中に朝廷を誹謗した部分があると長井を攻撃。藩内の空気を一変させ、文久2年(1862)7月、藩の方針を「航海遠略策」から「破約攘夷」へと大転換することに成功しました。これにより、長井は長州へと呼び戻され、謹慎処分となります。そして翌年には切腹を命じられて、長井は失意の中この世を去りました。公武合体を目指した薩摩藩とは異なり、長州藩はあくまでも攘夷を求めたのです。

► 薩摩藩に遅れを取ったと感じた長州藩はこの後、過激な攘夷運動へと転換し、その思いとは裏腹に厳しい現実を突きつけられることになります。
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